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年少時代の記憶 | 年中時代の記憶 | |
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私(ウーシャ)の母は、残念ながら既に他界し、父は子煩悩ではあったが「育児」には無頓着な人で、私がどんな子だったか聞いても「忘れた」というばかり。
また、私は小学3年になる年に、生まれ育った町を離れ、父の実家がある町(ここが第二の、やがては唯一の故郷となるのだが)に移っている。ここで私の歴史は1度分断され、私の幼いころ、私の周りにいた人々とは、そのとき以来、疎遠になってしまっている。
こうした事情から、自分の幼年時代について親などから聞き取りを行うのは、残念ながら不可能な状況だ。
母子手帳は発見されたが、見事にまっさらに近い状態(母はこういったものに無頓着な人だったのだろう)。
客観的な資料としては、保育園の出席ノートがかろうじて2冊残っているが、あまりにも書き込みが少ない。
そんなわけで、私の過去、特に幼年時代は、ほとんど闇の中である。
しかたがないので、自分の脳ミソの奥深く、しまい込まれている記憶の箱を探して、久しぶりに開けてみることにした。
するとそこには、たくさんの美しい宝物が詰まっていた。私が一生、生きていくに困らないだけの、私にだけ有効な、宝物が。
この宝物を1つ1つ見るにつけ、わが子ラギィもやがて成長して、困難にぶつかったとき、彼の、まさに今生きている瞬間瞬間が宝物になっていて、彼を支えてくれますように、と願わずにいられない。と同時に、そんな環境を用意してあげられているだろうか、と不安にもなる。
幼年期、それは文字通り「黄金の日々」だった。
世界はきんいろに輝き、私はたいていご機嫌で、一日中、でたらめな歌をうたっていた。
走るのとスキップが大好きで、そのくせよく転び、ひざ小僧には常にスリ傷またはカサブタがあった。
毎朝、家中で一番早く起きた。そして考えることといえば、「今日は何をして遊ぼうか」だった。
今からは信じられないが、たいへんなおしゃべりで、陽気で人なつこく、自分が誰からも可愛がられ、好かれることを信じて疑わなかった。
反面、おしゃべりが過ぎて生意気なことを口走ったり、強情っ張りでもあった。そのため、しっぺ返しを食らうこともあった。
ある日、保育園でお昼寝のとき、隣にシゲコちゃんという女の子が来たことがあった。ぺったんこのお昼寝布団に横たわって、至近距離からシゲコちゃんを眺めると、なんと、鼻の下にうっすらと産毛があるではないか(そりゃ、誰にでもあるよ、ということには気がつかなかった)。
私はこの「発見」に興奮してしまい、黙っていられなくて、「シゲコちゃん、ヒゲ、はえてるよ!ひげがあるから『ヒゲコちゃん』だ。ヒゲコちゃん、ヒゲコちゃん…」
私はしつこすぎたし、ヒゲコちゃん、もとい、シゲコちゃんは眠かった。
あっと思ったときには、シゲコちゃんの手が伸びて、私の手がガリリとひっかかれた。
さすがに自分が悪かったと思ったのか、私は口を閉ざし、泣きもせず、誰にもこのことを言わなかった。
こんな悪さ(悪気はなかったのだが)もする子だったが、体は弱く、しょっちゅう熱を出し、3才になる頃には近所の医者の立派な常連になっていた。
母が、発熱した私をおんぶし、よちよち歩きの妹の手を引いて医者に行くことも多く、看護婦さんに「反対だね」とからかわれた。
その医者の暗い待合室の壁の真ん中に、ぽっかりと小さな窓が開いていて、その向こうには「おくすりのおばあちゃん」がつくねんと座っていた。あまり頻繁に行くので、最初はちょっと怖かった「おくすりのおばあちゃん」ともすっかり仲良しになり、薬包の折り方を教えてもらったりした(今は、粉薬を「包む」ってことないですね)。
そのころ、つまり、生まれてから、父の実家に引っ越すまでの間ずっと、私は「団地」に住んでいた。
「団地」と呼ばれてはいたが、なんのことはない、平屋の低所得者向け公営住宅、6畳2間の4軒長屋である。
「団地」の敷地内には、「ゆうえんち」と呼ばれる、砂場とすべり台とブランコと「グルグル」があるだけの小さなスペースがあった。「団地」の子供たちは皆、ここに来て遊ぶのだ。
保育園から帰り、かばんを置いた後、さて、もうひと遊び、と、「ゆうえんち」に向かって駆けていく時が、一日の中で一番好きだった。
光の中に飛び込んでいくような、なんともいえない「わくわくした感じ」は、忘れられない。
私の理解する「幸せ」は、このときの感覚に基づいており、この後の人生でどんなつらいことがあっても(実際、いろんなことがあったわけだが)、これまで生き延びてこられたのは、幼児期のこの体験が、大きな支えになってくれたからだと思う。
私の最も古い記憶は、保育園に始まる。
私は3年保育だったが、最初の1年は、私を含めた10名程度の子供たちが、定員オーバーのため正規の保育園に入れず、最寄りの小学校の片隅に間借りしていた。
古い木造校舎の長い廊下の一番奥、裏側(つまり、園の入り口)から見ると入ってすぐ右の教室が、私たちの「ぶんえん」(と、わけもわからず呼んでいたが、「分園」のことだったろう)だった。隣はめったに使われない図工室だったので、小学生の世界からは一応隔離されていた。
母に手を引かれて、校舎にそって校庭を横切り、左に曲がると、「ぶんえん」の入り口だ。
その日は、園に付いて早々、引き継ぎの最中に「おもらし」をしてしまい、担任のフーチ先生(仮名)が、「あがりかまち」で手早く濡れた服を替えてくれた。その間も、私は、自分が着替えさせてもらっていることには無頓着に、上機嫌で「おかえりの歌(♪おっかえっり おっしたっく でっきまっしたあ〜)」を歌っていたのだが、ベテランのフーチ先生は、「まあ、来たばっかりなのに、もうおかえりなの?」とやさしく言って笑った。母は申し訳なさそうに、何事か言っていた。
次に覚えているシーンは、お誕生会だ。
教室の隅に七夕のお飾りがあったから、7月か8月の誕生会だったろう(七夕は旧暦で行われていたかもしれないので)。
このときの記憶には音声がない。
いろんな動物のお面(?)を頭に乗せたクラスメートたちが、ほの暗い教室のステージに、椅子を並べて座っている。私はなぜか、教室の入り口から、その子たちを見ている。
また別の日。
「分園」の出口のすぐ前には、ジャングルジムがあったのだが、お迎え前の短い時間に、私はふと疑問に思った。
「ジャングルジムの、まんなかへんの「□」は、なんのためにあるんだろう?」
つまり、普通、ジャングルジムで遊ぶときは、まず外壁(?)にとりついて上まで登り、それから屋上面(?)を移動しますよね?
構造的なことには思い至らず、「まんなかを使わないのでは、せっかくのジャングルジムを無駄にしてしまう(?)」、のような思いにかられて、私は突飛な行動に出た。
いきなりジャングルジムの外面の真ん中へんの「□」にとりつき、そのまま、ジャングルジムの中を、狭いトンネルをくぐる要領で、ジャングルジムの腹をえぐるように直進したのである。
ウーちゃん、登るのかなー、と思って見ていたらしい先生は、びっくりして、
先生「あら、登らないの?」
ウー「だって、もったいないじゃん?」
先生「???」
お迎えに来た母に向かって、「ウーちゃんて、ほんとにユニークですね〜(^^;」と、先生は言ったのであった。
私が4才になるちょっと前に、妹が生まれた。
私は家に赤ちゃんが来ることをとても楽しみにしていて、しかもきっと「妹」に違いないと信じ、ひそかに名前まで考えていた。
奇妙なことだが、このとき既に私は、誰に教わるでもなく、50音表のしくみを知っていたらしい。
というのは、妹の名前は、自分の名前と頭韻(←という言葉は知らなかったが)を踏む名がよいと考え、「ウ-ア、ウ-イ、ウ-ウ、ウ-エ、…」と、50音表に沿ってシステマティックに、響きのよい音を探していったからだ。
まだ4才にもなってないころで、ひらがなも読めたとは思えないのだが、50音表を知っていたのは奇妙だ。ひょっとすると、「ピンポンパン」のような、テレビの幼児番組を見て、覚えてしまったのかもしれない。
そのようにして、私が見つけた「響きのよい名前」を提案すると、両親も「それもまたよし」と思ったのか、妹の名は、私の提案したものに決まった(もちろん、漢字は両親が考えた…)。
「住宅」に住んでいた間も、お盆とお正月は、父の実家に帰省していた。
あるとき、帰省直前に、「いいかい、おばあちゃんは、年をとっていて弱いんだから、わっ!と言ってドシン!とぶつかっちゃいけないよ」と、父から厳かに申し渡された。
わっ!と言ってドシン!とぶつかる遊びなど、したことがないような気がしたので、不審に思ったのだが、その頃父は、私にとって絶対の存在だったので、黙ってうなずいた。
その後私は、帰省中、「おばあちゃんに、わっ!と言ってドシン!とぶつかっちゃイケナイ」「わっ!と言ってドシン!とぶつかっちゃイケナイ」と、何度も何度も繰り返し心に刻みこみ、本当に本当に、そんなことしないぞ、と思っていたのに、気がついたときには、おばあちゃんに向かって、わっ!と言ってドシン!とぶつかっていた。
おばあちゃんは、びっくり仰天して、文字通りひっくり返った。
さあ、父の怒るまいことか。
むんずと両腕をつかまれぐいっと持ち上げられ、暗くて狭いムロへ落とされそうになってギャアギャア泣きわめいているところを、危機一髪、当のおばあちゃんにとりなされて、おしおきを免れたのだった。
この事件よりちょっと後。雨が降って、外に遊びにいけなかった日。
唐突だが、妹は気難しい赤ん坊で、母がおんぶか抱っこをしないと寝つかない子だった(寝ついたと思ってベッドに寝かせると、すぐ起きて泣きだしたり…)。そんな妹を、母がようやくベッドに寝かしつけたところだった。
父は不在で、母と、私と、眠っている赤ん坊の3人が、雨音が陰気に響く6畳間で、ひっそりと固まっていた。
母は窓ぎわでつくろいものか、洗濯物をたたむかしていた。私は母からできるだけ遠く離れ、ベビーベッドの足下に座り込み、退屈していた。
ところで、私の家は、おもちゃがないことで有名だった。ホントにないのだ。
お絵かきの紙も、父が職場から持ち帰る裏紙(今のコピー用紙と違って、茶色でざらざらのワラばん紙)だったし。(そんなに貧乏だったとは思えないのだが…まあ、余裕はなかったことは確かだろうし、相対的におもちゃが高価だったのかもしれない。)
私のおもちゃをぜんぶリストすると、いとこのお下がりのブリキの車、チビたすりこぎ(本物のお下がり)、それから電話(ホントのおもちゃ)だ。
この電話は、プラスチックでできたカラフルなもので、私が持っている中では最もおもちゃらしいおもちゃだっただけあって、お気に入りだったのだが、この日はこの電話をめぐって、微妙な緊張感が6畳間を満たしていた。
なんとなれば、この電話には、小さな、黄色いボッチが付いていて、そのボッチを押すと、「リーン」とベルが鳴るのだ(長く押せば押すほど、長く鳴る)。
さて、電話で遊びたくてうずうずしている私に向かって、母は「ベルをならさないでね、赤ちゃんが起きちゃうから」と静かに言った。
私はもちろん、鳴らさないぞ、と思った。絶対に鳴らしちゃイケナイ。赤ちゃんが起きちゃうから。イケナイ、イケナイ…
すると、電話の黄色いボッチが、余計に気になるのだ。小さなボッチが、だんだん大きく、大きくなっていって…
イケナイ、イケナイってば…
気がつくと、私の指は黄色いボッチに触っていた。「チリン…」とちいさな音が鳴った。
私はビクッとして、母の顔を見た。母は疲れたような顔で私を見たが、私を叱らなかった。幸い、赤ん坊も起きなかった。私はホッとした。
その後、その日をどう過ごしたかは記憶にないが、再びベルを鳴らすことはなかった。
こんなときの、自分の行動が、いまだにわからない。あまりに強く、真剣に、イケナイと思うと、気がついたときにはそれをやってしまっているのだ。記憶に残っているのはこの2件だけだが、この頃はけっこう頻繁に、こうした問題行動を起こしていたのかもしれない。
保育園の年中以降では、こうしたことはなくなっていたように思う。
妹が生まれて以来、私は両親に甘えることをすっかりやめていた。
もはや親の愛情を独り占めできないことをすぐに了解し、それならば、いらない、と思ったのだ。
全か無か、という極端な思考傾向は、生まれつきのものだったとみえる。
だから、(理屈はこねても)駄々をこねたり、モノをおねだりしたりすることもなく、聞き分けの良い子だと思われた反面、かわいげのない子だとも思われたろう。
もちろん、それは私の勝手な気持ちにすぎず、両親からは以前と変わらぬ保護を受け、心配され、世話をされ、大事に育てられていたことは間違いない。そうであればこそ、いかに周囲に気がまわらない私だとはいえ、「今日は何をして遊ぼうか」程度しか考えないお気楽さで、あの、きんいろの至福の瞬間を、毎日のように享受できていたのだと思う。
私はいわゆる「お父さん子」だった。この「お父さん」は、自分の気が向いた時しか遊んでくれなかったし、何かの拍子に(私には原因がわからなかった)逆鱗に触れると、むちゃくちゃ怒ったりして怖い面もあったのだが、それ以上に、なんとなく気が合う所があった。
妹が生まれた後は、一層この傾向が強まり、父が帰宅すると大歓迎で、玄関までダダダダと走っていって、お出迎えしたものである。
しかし、私には、「ただいま」と「おかえり」の違いが、とっさに区別できないのだった。冷静に、良く考えてみれば、わかるような気がする、でも、お出迎えするときには、興奮してわからなくなってしまって、いつでも、「おかえり〜、ただいま〜」と、両方言っていた。両親は、私がふざけているとでも思っていたのか、特に直したりしなかった。
この種の問題では、他に、「貸す」と「借りる」が混乱していた。
いつ頃からこれらの言葉を正しく使えるようになったのかは、覚えていない。
私が年中さんになる年、我が故郷○○○町に保育園が1つ新設され(それまでは1つしかなかった)、「ぶんえん」にいた私たちは全員、「第一保育園」に通うことになった。
年中さんは、2クラスあったが、私のクラス担任は、「ぶんえん」から引き続き、フーチ先生だった。
あるとき、珍しく市販の教材を使って、貼り絵の活動があった。その日はとてもいい天気で、クラスメートたちは、こんな日に薄暗い教室で机に向かうなんてまっぴら、とばかりに、さっさと課題を終わらせ、陽光の中へ駆けだしていった。
しかし私は、目の前の課題を完成させることしか考えられず、しかもあまり器用ではなかったので、はさみとのりを相手に格闘していた(しかも、不器用なくせに、工作は好きだったので、ハマってしまった)。
とうとう、薄暗い部屋の中で、私は先生と二人きりになった。先生は、教卓で、静かに書き物をしていた。
そんな状態になっても、私は「適当に切り上げる」ということができないのだった。また、フーチ先生も、「早くしなさい」とせかすような干渉は、いっさいしないのだった。
ようやく作品が完成し、先生のところに持っていくと、先生はにっこりして、「ビリ等賞!」と言いながら、やさしく頭をなでてくれた。
ちなみに、保育園では毎日「おしたく競争」というのがあって、朝来た時と帰る時に「おしたく」を競争でやらせるのだが、私はいつも「ビリ等賞」なのであった。
あるとき、フーチ先生から、「あら、セロハンテープがなくなっちゃったわ。ウーちゃん、ちょっと園長先生のお部屋に行って、もらってきてくれる?」と、お使いを頼まれた。
私は張り切って園長室まで走って行った。
園長先生は、深みのある低音を響かせて話す、恰幅のよい男の先生で、子供から見るとまるで巨人…とまでは言わなくとも、威圧感を感じさせる人だった。
園長室に入り、園長先生の顔を見たとたん、私の記憶から目的のモノの名前の後半が吹っ飛び、前半の「セロハン」しか残っていないことに気がついた。
あせりにあせって、
ウー「あのう、あのう…、セロハン…、セロハン(なんだっけ?)、ください…」
園長先生「セロハン、セロハン、…セロハン紙のことかな?」
セロハン紙…たしかにこの言葉にも聞き覚えがある。
私は「セロハン紙」が何だか知っていたハズだし、おつかいに頼まれたモノが何かも知っていたハズだった。頭の中にはそのイメージがしっかりあったが、どうしてもその名称が思い出せないのだった。
そしてすっかり混乱し、何がなんだか区別がつかなくなってしまった。
途方にくれて、首をかしげながら、それでもなんとか、「フーチ先生が、ほしいって…」と説明(?)すると、園長先生も首をかしげながら、「なんだろうね。フーチ先生にきいてみようね」といって、一緒にフーチ先生のところに戻った。←おつかいの意味がない(^^;)
フーチ先生から事情を聞いた園長先生は、「なーんだ、セロハンテープのことだったんだ」と、笑いながら、大きな手で私の頭をポンポンしてくれた。
私は見事にお使いに失敗し、かなりしょげた。怒られたり責められたりしたわけではないのだが、この出来事がいまだに忘れられないことを見ると、あのときの挫折感は、相当、深かったとみえる。
私は好き嫌いは少ないほうだが、ピーマン・セロリ・ネギ類がダメである。(←少ないか?)
あるとき、保育園の給食に、天ぷらうどんが出て、その天ぷら(かき揚げ)に千切りピーマンとたまねぎが入っていた。私は当然、食べられなかった。
「給食は残さず食べる」という指導がされていた時代だったので、食べ終わるまで席を離れることは許されなかった。普段から食べるのが遅い私だったが、だんだん伸びていくうどん、ふやけて溶けていく天ぷらを眺めて、途方にくれていた。
そのうち掃除の時間になり、私は席ごと廊下に出された。もちろん、ふやけきった、ちっとも減らない天ぷらうどん付きで。
廊下に座って、天ぷらうどんとにらめっこを続ける私の周りで、遠慮なくほうきがかけられ、ほこりが舞った。
よそのクラスの先生に「あら、ウーちゃん、まだ食べてるの?」と声をかけられても、ただ微笑み返すだけだった(今思えば、泣くとか、「どうしても食べられません」と訴えるとか、すればよかったのだろう)。
そのあたりで記憶が途絶えているので、その後、哀れな天ぷらうどんがどうなったかはわからない。