A-typeで行こう!

ごたく 〜A-typeについて考える〜

社会性と社交性
クニへ帰して
プロトコルの違い
愛しのスペイン
ことばを学ぶ
想像力
そっくり
自閉症スペクトル指数(AQ)

社会性と社交性

うちで一番社交性があるのはベッポくん。場の雰囲気を読むのも上手だし、何より弁が立つ。なので、近所付き合いや、保育園の保護者会はベッポくん担当となっている。
ラギィはにこにこ自閉くんで、保育園のアイドル。村の人気者だ。
そして、一番社交性がないのが私。本当に必要に迫られる時以外、極力人に会わないようにしている。

しかし、我が家の家計を主に担っているのは、最も非社交的な私。ベッポくんは会社勤めは一度もしたことがないし、おそらく個性が強すぎて、いわゆる「勤め人」は勤まらないだろうと、長年つきあってきた私が保証してあげよう。

どうも、社会性と社交性は違うようだ。

ベッポくんによると、傍から見た私は「ちょっとおとなしめの、きちんとした人」に見えるそうで、狙ったセンはクリアしているなと。問題は、本当の私は、おとなしくも、きちんとしてもいないことなんですが。

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クニへ帰して

※この文章は、以前よその掲示板に投稿したものを少し書き直したものです。ダブルポストにひっかかりそうですが、自分のサイトだから、まあいいか(いいのか?)。
同じ文章を読まされてしまった方、ごめんなさい。

話は、A-typeのケがある女性が「はーっ、なんだか国に帰りたいよー。(どこや、それは!?)」と言い出したことに始まった。
クスクス、わかるわかる。その気持ち。

また、自閉症のお子さんを持つ別の女性から、障害児だけでなく日本に滞在する外国人の子どもについて、「本来は、同化を求めるのではなく、個々の生徒の言語や価値観などの背景を認め成長を促す教育が求められているのではないか(ところが現実には、一律に同化を迫られる)」と問題提起をされた。

私は、まったくその通りだ!と思った。

ところで、在日外国人、特に、見た目が日本人と変わらないのに、中身は思いっきりラテンな日系人と、やはり見た目はフツーの日本人と変わらない自閉系日本人とは、置かれている状況がよく似ているなーと、前から思っていた。
問答無用で「同じ」と思われるところとか、マイノリティであるとか。
思っていることをバンバン言っちゃうところとか。いじめに会いやすいところとか。
あ、このへんは帰国子女とも共通しますね。

(それでか、自閉について知る以前から、妙に在日外国人には親近感があって、 学生時代は関連機関でバイトやボランティアをしていた。それに、 帰国子女たちの中には、妙にウマが合う人がいたなあ。)

★「異文化ストレス症候群」

というのがあるそうで、これはそのまんま、異文化への適応に絡むトラブルが 原因で起きる、心の病気のことなのだそうだ。参考図書では、外国で暮らす日本人、日本で暮らす 外国人、在日外国人に関わる日本人、などを対象に考察されていた。

(参考図書:「異文化ストレス症候群-人はなぜ異国で病むのか カルチャーショック を克服するには」、大西 守、バベル・プレス、1992)

上記の本によると、外国で暮らして異文化ストレスにより精神状態が悪くなった人への究極の治療法は、本国へ帰すことだそうだ。1カ月〜数カ月程度の短期間でも、母国でゆっくりすると元気を取り戻し、再び異文化の中で適応してがんばれるケースが多いんのだそう(もちろん、そう簡単にいかない場合もあるわけですが)。
やっぱりねー。という感想です。

自閉系人も、毎日が異文化ストレスにさらされる生活といってもよいのではないか。
時には母国(って、あるのか!?)でゆっくりさせてもらいたい。
国がなければ、ちいさなコミュニティでもいいから、「ほっ」とできるところがほしいですねえ。

親子で自閉人の場合は、家庭をコミュニティにできるから、ちょっとお得かも。

親御さんが非自閉人でお子さんが自閉人の場合は、これはもう、お互い毎日が異文化とのバトルで、たいへんなことだろう。親御さんは、「在日外国人に関わる日本人」の立場を、あるいは、国際結婚したことを想像してみてほしい。
「毎日、異文化ストレスにさらされている」という観点から、ご自身の精神衛生を時々チェックされるとよいかもしれない。

また、自閉系のお子さんは、毎日、学校や保育園/幼稚園で、異文化への適応を迫られ、頑張っている。相当なストレスを受けている。
療育を否定するわけではまったくない。住んでいる国の言葉や文化を学ぶことは当然で、その地に適応するために必要不可欠なものだ。しかし、将来の適応をより良くするためにも、どこかで、「ほっ」とできる場所や時間を、ぜひ用意してあげてほしいと願う。

幼い人にはまた、アイデンティティについても考えてあげたい(外国生まれのお子さんのように)。

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プロトコルの違い

A-typeコミュニティでは、「常識って何?」「常識辞典がほしい」あるいは「常識なんてきらいだ」なんて話題がよく出ますが、この場合の常識ってなんでしょう?

私は、「世間」でA-typeが「常識がない」と言われる場面で本当に問題にされているのは、「常識(common sense ないしは common knowledge)」ではなく、「プロトコル(protocol)」の違いなんでは…と思ってたりします。
(「プロトコル」:コンピュータネットワークの「通信規約」の意味ですが、原義の「外交議定書」という意味でもいいです。要するに、コミュニケーションの手順を定めたものです。)
なぜなら、単なる知識面では、A-typeのほうが勝っていることも多いと思うので(ある分野については、それこそ非常識なくらい(笑)詳しかったりするのは、A-typeにはよくあることです)。

たぶん、非自閉の方達は、それぞれの文化(サブカルチャーを含む)ごとに共通のプロトコルを持ち、自閉な人たちは、それぞれの「個別にユニークな」プロトコルを持っているのではないでしょうか。
↑単なる思い付きです。未検証。

ところで、私にとって、相手がA-typeかどうか見極めてコミュニケーションモードを切り替えるのは、事を円滑に運ぶため、大事なことです。
対A-typeモードは、対その他一般モードより気楽な部分もあり、逆に気を使う部分もあります…要するに、使用するプロトコルの違いです。

A-typeの人は、各人ごとにプロトコルが違うので、A-type同士だからといって、コミュニケーションが簡単になるわけではありません。
逆に、属する文化の一般的プロトコルの基本的なところを学んでしまった私にとっては、共通のプロトコルが通じる非A-typeまたはエミュレータ系A-typeとコミュニケートするほうがうまくいったりします(疲れることは疲れますが)。
勤務先には、社内共通プロトコルの許容範囲内に収まるエミュレータ系A-type(私もこれ)が多くいて、この方たちとコミュニケートするのがいちばんラクです。

障害が重くて共通プロトコルを学べない(学んだけど従えない)、あるいは、主義として共通プロトコルに従わない(って人いるかな?)自閉系の方は、各自の「個別にユニークな」プロトコルが通じる人を見つけるのがまず難しいでしょう。
そのうち、コミュニケートする意欲を失ってしまったり、一方的にしゃべり続けたり(書き続けたり)するようになるのかもしれません。

自閉系のかたは、私にとって、外見(特に、独特な澄んだ瞳)や、ありかたそのものが、非常に美しく魅力的な場合が多いのですが、仕事などで必要に迫られないかぎり、遠くから鑑賞するにとどめたほうが、お互いのために良いようです。
いくら感性が似ていたとしても、プロトコルの違いは如何ともしがたいものがあります。

また、いくら共通プロトコルを巧みにエミュレートできていても、自閉である限り、個々にコミュニケーション的な弱点(踏まれると痛い…どころではすまないので、私は「地雷」と呼んでいます)をそれぞれが持っていて、それがどこにあるのか、踏んで(踏まれて)みるまでわからないのですからたいへんです。
では、互いのプロトコルを公開すればよいのか?
そう簡単にはいきません。なぜなら、プロトコルの中には地雷情報が含まれています。そんな物騒なものを公開して、もし悪意ある人にかかったら、ひとたまりもありません。

さて、おそらく自閉+ADHDで、誰もついていけないペースで人生をかっとばし、周囲の人は振り回されて大変だけど本人は常に天真爛漫、波乱万丈の人生を持ち前の才能で泳ぎきって、現在は優雅に年金生活を楽しんでいる人達がいます。(しかも身内だ。)
こういう人達を、「先行逃げ切り型A-type」と私は名付けました。
彼らは、その卓越した才能と魅力的なキャラクターのおかげで、周囲の人たちがフォローするので、「他人のプロトコルに合わせる」ことに汲々とする必要がありません。
A-typeとしてはかくありたいものだと、尊敬しています。

しかし、私には特別な才能もないし、性格的にも威勢の良いほうではないし、「エミュレータ」としてひっそりと生きていくほかなさそうです。
さて、ラギィはどうなりますやら…。「先行逃げ切り型」になるには、線が細すぎるような感じがしますが…。

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愛しのスペイン

去年の夏、某F社提供の「世界の車窓から」というTV番組で、二度目のスペイン編が放映されたようだ。(残念ながら、ウチのテレビでは受信できないが。)
やっぱりいいよなー、スペイン。
私を育て直してくれた国。
『ずっと「普通」になりたかった』グニラも滞在したことのある国。
人と違うこと、独創的であることが尊敬され、奇矯であることさえも受け入れられる国。

若者が年上の者に向かって議論をしかければ、「ナマイキだ」なんて言われず、大いに喜ばれる(もっと言え、もっと言え。俺を論破してみろ。)議論好きな人たちなのだ。論理的に話すことは、こうして年少のうちから鍛えられ、論理に強い人は尊敬される。

あの国には、アスペルガータイプや積極奇異型と呼ばれるタイプの自閉症は、「障害者」としては存在しないのではないかと思う。active and oddは、排除の対象ではなく、逆に尊敬され大事にされるような文化なので。
なんといっても、ピカソやガウディ、ミロやダリを生み、育んだ国だ。

その昔、私がスペインで暮らしはじめた頃、私の語学力(およびコミュニケーション能力)は、3歳児以下だった。
スペインに、いきなり行ったわけではない。まがりなりにも2年間、スペイン語の専門的な訓練を受け、一通りの文法と読み書きは学んでいた。それがきちんと身についていたかどうかはまた別だが、成績はまずまずだったのだ(優秀ではなかったが)。初歩的な会話も可能、だと思っていた。
だから、スペインに行くにあたっても、それほど不安はなかった。まあ、なんとかなるだろう、と思っていた。自分の力を過信していたのだ。若さゆえってやつか、生来のお気楽さか。
厳密に言うと、「語学力」はそこそこあったが、コミュニケーションというのは語学力だけではどーにもならない、という、1つの例を話そう。

あれはスペインに着いてからどのくらいだったろう。
下宿を見つける前だったか、後だったか…だから、着いてから1-2週間以内の出来事だ。

昼の12時ころ、空腹になった私は、いい匂いに引かれて、小さな食堂に入った。ちょうどお客が途切れたところか、お客は私だけだった。
食堂のご主人と思われるおじさんが、おや?という顔をして出てきて、
「食べに来たのか?(?Vienes para comer?)」
と聞くのだ。

食事時に食堂に来たのだ。食べる以外に何があるというのだ?と思って
「?Perdon?(すみません、もう一度)」
と聞きなおすと、言葉が通じないと思われ、手真似で食べるしぐさをされた。これはショックだった。(自分がこの2年学んだことは何だったんだ?の大ショック。)

いや、ことばがわからないんじゃなくて、意味がわからないんだが、と思いつつ、ウンウンとうなずくと、満面の笑顔で、「まあ座れ」とジェスチャー。
メニューを持ってくるでもなく、「肉か? 魚か?」とジェスチャー付きで聞いてくる。(ちなみに、スペインの魚のジェスチャーは、アゴの下で両手の平をヒラヒラさせる。魚のヒレだ。結構笑える。)
笑いながら、
「!Pescado, por favor!(魚!)」
と答えると、「さかなさかな〜。日本人はみんな魚がすきね〜」と節を付けて歌うように言いながら厨房に消えて行った。
#余談だが、スペイン語はもともと歌のように響きの良い言葉で、それに加えて、しゃべるときに節を付けちゃう人が、結構いました。夜中に裏路地で酔っぱらいが歌う歌が、ものすごくうまかったりして、侮れない人たちなのだ。

しばらくして、大きな皿に山盛りの料理と、パン(スペインの一般的なパンは、日本でいうところのフランスパンの一種です)の切ったのが運ばれてきた。これはなんだったか…パエジャだったか、豆の煮たのだったか、とにかく魚料理ではなかったので、「あれ〜?」と思ったのだが、おいしかったのでそのまま食べてしまった。

満腹、満足して席を立とうとすると、「まあ、ちょっと待て」と、食堂のおじさんに肩を押さえられ椅子に押し戻された。おじさんはそのまま厨房に消える。
"???"と思って座った私であるが、このあたりでちょっと不安になってきた。なにしろ、店の中は、周りに誰もいないのである。食堂のおやじが良からぬことを考えてるんじゃないだろうな? モロッコあたりに売り飛ばされたらどうしよう(T_T)。←売れない、売れない(^^;)

すると、おじさんが厨房から、またしても皿を持って現れた。こんどは正真正銘、皿からはみださんばかりの巨大な魚のフライと、付け合わせと言うには憚られる、山盛りのフライドポテト。
すると、さっきのはサービスだったのか? そんなサービス、受けてしまって良いのか? でも食べちゃったものは仕方ないし。それより、このフライ、全部食えっかな? …結局、全部食べたかどうかは記憶がない。ホントに怖くなってきて、早くここを出ようと、そればっかり考えていた。(「注文の多い料理店」に入っちゃった気分。)

さて、魚が終わって席を立とうとすると、再び「まあ、ちょっと待て」と、椅子に押し戻されたが、こんどは
「Ya estoy llena(ホントに、おなかいっぱいなんです)」
と、おなかをポンポンしながらアピールすると、おじさん肩をすくめて、あきらめのポーズ。

会計をしようとレジの方に行くと、おじさんあわてて追いかけてくる。
なんとか無事に会計を済ませて、店を出るときは、「また来てね〜」と、満面の笑顔で手を振るおじさん。どうも私がほんの子供のように見えたらしく、ほっとくと飴玉でもくれそうな勢いだった。いい人なのだ。

いったい、あれは何だったのか。
もちろん、非常識だったのは私で、食堂のおじさんは、言葉の通じない(と思われた)外国人に対して、とても親切にふるまっていたのだ。

種明かしをしよう。

  1. なぜ「食べに来たのか」と聞かれたのか。
  2. ・まずは生活時間の違い。
    スペインでは、朝食はだいたい7時前と早く、しかもほんの少しつまむ程度だ(コーヒーに菓子パンまたはビスケット、といったところ)。そして昼時は、午後2:00〜4:00くらいなのだ。それではおなかが持たないので、午前10:00くらいに軽食をとることが多い(ボカディージョという、スペイン式のサンドイッチがポピュラー)。
    昼の12時という時間は、そのどれにもあたらない、中途半端な時間だったのだ。
     
    ・その店は、食堂、兼、「バル」であった(そういう店は多い)。
    バルというのはスペイン人の生活には欠かせないもので、コーヒーや軽食も出すし、酒類やつまみも用意してある、カウンター主体の気楽な飲み食べ屋さん。昼間でも、ちょっと立ち寄って、コーヒーだけ飲んで行く人もいれば、一杯引っかけて去る人もいるわけだ。
    #夜な夜な、バルをはしごするのが、スペイン人(の、主に男性)の楽しみなのだ。
    #日本でも、夜は居酒屋、昼は定食屋をやってる店がある、ということは、スペインから帰国後、社会人になってから知った。
    というわけで、半端な時間に来た私を見て、店のご主人は「あ。変な時間に、ハポネシータ(日本人の子供)がきたぞ。しかも一人で。コーヒーかジュースで一休みしにきたんだろうか? まさか"一杯"ってわけじゃあるまいし。いやまて、ひょっとして、ちょっと早いけど食事か? 日本人は気早だしな」とか思って、確認してくれたのだ、たぶん。
    そういえば、"comer"という動詞は一般的には「食べる」という意味だが、「昼食をとる」という意味もあるのだった(と、後になって思い出した。←なーんだ、語学力もなかったんじゃん)。とすると、「食べにきたのか?」じゃなくて「昼メシか?」と聞かれたわけだ…ま、似たようなものだが。
     
  3. なぜ、頼みもしない料理が来たのか、また、なぜ何度も席に戻されたのか。
  4. スペインの庶民的なレストランには、たいてい「昼定食」がある。メインが肉か魚かによって、2種類以上の定食を用意しているところが多い。
    定食は、料理2皿(1皿目がスープまたは野菜料理、2皿目が肉または魚料理)+パン+飲み物、それにデザートまたはコーヒーが付く。(サラダなどの前菜が付くこともある。)
    #値段はまあ、店のグレードに応じてだが、安いところでは500ペセタ(約650円)くらいからあったな。
    で、それらが1度に出されるのではなく、コース料理と同じく、順繰りに出てくる。しかも、(日本人的感覚からいうと)ゆっくりしたペースで。なにしろ、スペインでは、一般的に、昼食に2時間はかけるのだ(少なくともバルセロナ・オリンピック前まではそうだった)。
    #この定食形式は、1990年代後半ごろから日本ではやりはじめた、フレンチやイタリアンの気軽なレストランの「ランチタイム・メニュー」とかいうのに移植されているようだ。私が働きに出ている街にも、ランチタイムには1000円ちょっとでデザート付きコース(メインは肉か魚か選べる)が食べられるフレンチやイタリアンの店がいくつかあって、うれしいことである。残念ながらスパニッシュのお店はない。誰かやってくれないかなあ。

    どうせメニューは読めないだろうと思われた私は、「魚の定食」を頼んだことになっていたのだった。1皿目が、日本的感覚からいうととても多かったので、これが頼んだ料理かと勘違いして、席を立とうとしたら、押し止められたわけだ。まだ、メインの料理が出ていなかったのだから。ちなみに、魚の後に、さらにデザートが供される運びだったのだが、断ってしまったわけだ。

  5. なぜ、会計しようとしたら、おじさんがあわてたのか。
  6. スペインでは、レストランで食事したら、会計は席で払うシステムになっている(お店の人を呼んで、取りに来てもらう)。ひょっとしたら、日本でも、高級な料亭やレストランではそうなのかもしれない(そうなの?)。
    非常に庶民的に育ち、乏しい人生経験しか持たなかった当時の私には、思いもつかない支払方法であった(学校で教えてくれなかったし)。

こんな些細な(?)失敗が何度かあり、「私はここでは、ある意味ヘレン・ケラーと同じだ。読めない・話せない・聞こえない(聴力はあっても意味がわからないので、ある意味聞こえないのと同じ)三重苦だ」と、自分の無力さを実感し、(ナイショだが)枕を濡らした。
そして、ある決心をした。

「言葉によるコミュニケーションが不自由ならば、他のあらゆる手段を講じよう。自分の持つあらゆる力を動員し、3歳児のように全力をあげてコミュニケーションを図ろう。そうして、何としてでもこの1年を生き延びよう。」
スペイン滞在期間は1年の予定だった。

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ことばを学ぶ

#この文章は、2001年初冬、ラギィが3才になった頃のメモです。

ラギィを見ていると、まさに「外国語を学ぶように」日本語を学んでいる。 自分なりに文法がわかってきていて、単語や言い回しを選んでは文法規則に合わせて並べ、訥々と話す。

つまり、

[xxxx] が [xxxx] で [xxxx] し (チャッ) たんだヨ。

という構造がわかっていて、[xxxx]に入るコトバを入れ換えたり、(チャッ)を付けてみたりはずしたり、といった話しかたなんである。

外国語を学ぶ苦労と楽しさ、初めての表現を使うときの不安感と通じたときのうれしさは、私もみっちり経験しているので、彼がたどたどしくもいっしょうけんめい話しているのを見ると、「話す」ことへの意欲、努力、を感じて、とても好もしい。

ラギィは2才数カ月で2語文が出た。その後の1年間の発達はめざましく、3才数カ月で、語彙の圧倒的不足・格助詞の誤りを除くと、流暢さには欠けるが、ほぼ正確に日本語をあやつれるようになった。
ただし、いかにもアスペらしく、主体/客体の認識のおぼつかなさはある。「〜してくれた」と「〜してあげた」、「おかえり」と「ただいま」がごっちゃになったりとか。
ちなみに私(ウーシャ)も子どもの頃、「おかえり」と「ただいま」の使い分けがとっさにできなくて、両方言っていたものだ(「おかーえりー、ただーいまー!」)。

語彙については、3才児だもん、少なくてあたりまえ。しかも、ヤツは新しい語彙の習得に余念がない。甲高い声で毎日、何度でも、「○○ッテ、ナンノコト?」と訊く。訊き続ける。ちょっとうるさい。
学生時代、「毎日新しい単語を10個覚える」という課題に悲鳴を(白旗も)上げていた私としては、そのエネルギーに脱帽するのみである。

ニンゲンはどうやってコトバを獲得するのか、前から不思議で、子供に恵まれたのを幸い、ずっと観察してきたのだが、毎日少しずつ発達しているので、結局よくわからなかった。「いつのまにか」しゃべれるようになってしまった。

ほかの子をじっくり観察したことはないのでわからないが、アスペらしく、彼のコトバ獲得のプロセスは特殊かもしれない、とは思う。気づいたのは、彼が好きで繰り返し見ているビデオから多くを学んでいるということだ。
「あー」とか「うー」とか以外はほとんどしゃべらなかった去年の冬(2才数カ月)、トトロのビデオを丸暗記して、ある日突然、トトロのセリフ(いや、トトロはしゃべらないんだが、さつきとかメイとかおばあちゃんとか、とにかく映画に出てくるセリフ全部)をしゃべりはじめた時は驚いた。その後3カ月ほど、一日中時を選ばず、トトロのセリフをしゃべり続けた(いわゆる「遅延エコラリア」だと思う)。
発音は最初からクリアーで、この件以降、ラギィは、ふにゃふにゃして聞き取りにくい、いわゆる「赤ちゃんことば」を経由することなく、コトバの力をグンと伸ばした。

しかし最近は、人に言われたことでも、特にインパクトのあるコトバはすぐに覚えて来る。家ではわりとスタンダードな日本語を使っているのに、保育園で時々老人施設に行くらしく、いつのまにか方言(しかも、お年寄りのコトバ)や、乱暴な言葉遣いを覚えてくる。
しかし、人の言うことを聞いて学べるというのは、それだけよく発達したということでもあるので、喜ばしいともいえる。

なぜ家でスタンダード日本語を使っているか。それは、ベッポくんと私が別々の地域出身であるということもあるが、スタンダードでていねいな話し方には汎用性があると私達が判断しているためだ。

アスペな人は、相手や場所によって言葉遣いを変えることが苦手だ。自閉症の仲間はみな、人間には社会的序列があるということが、理解しにくいらしい(私は小学校か中学で「五色の姓」を習ったとき、「ああ、こうやって世の中の序列を作ったんだ」と理解した)。
ラギィにはまだ、目上の人/目下の人という概念がない。大人に向かって「○○しなさい!」「○○じゃなきゃダメでしょ」とか言ってしまう。それは、同じ状況のとき、自分が言われたことを覚えていて、それをそのまま使ってしまうのだ。本人に悪気はない。

「指令」も「命令」も「お願い」も、力関係を除けば「人に何かをさせたい」ということになるだろう。
逆に言うと、アスペは、「人に何かをさせたい」時にも、相手との関係によって、「指令」や「命令」や「依頼」や「懇願」など何種類もの表現方法があることを、意識して学ばなければならない。

しかし、ことばを学びはじめた段階で、「人に何かをさせたい」時に、「○○しなさい!」「○○してください」「○○してくれる?」と、いろんな言い方があることを、一度に学ぶのは難しい。
大人でも、"Sit down!" "Sit down, would you?" "Please sit down" "Please be seated" を一度に覚えろと言われたら、混乱してしまうのと同じだ。
(ただし、ある程度言葉の習得が進むと、上記のように似た表現をまとめると、かえって理解が進む。ラギィの場合も、もう少し大きくなったら、いろいろなパターンの日本語表現を整理して教えてあげると、よく理解すると思う。)

人は、誰かと話すとき、話す相手が自分よりエライかそうでないか(だけではなく、もっと微妙な関係もあるだろうけど)を、瞬時に判断して、話し方や態度を調節する。
島田荘司は名探偵御手洗潔の口を借りて、日本ではエライ人が目下の人に横柄な態度をとりがちなことを、「日本語」のせいだと述べているが、日本語に限らずどんな言葉にもあることだと思う(社会的序列がある社会の言葉であれば)。たしかに日本語(というより、日本の社会だろう)は、極端なほうかもしれないが。

さて、相手によって態度を変えなければならない、という原則がわかったところで、アスペには次のハードルがある。相手と自分の関係を、判断しなければならない。うっかりすると相手が「誰か」も判断が難しいことがあるというのに…。

考えてみれば、同じことを言うのに、目上の人は自分に「××」と言っていいが、自分は目上の人に「××」と言ってはダメで、代わりに「○○」と言わなければならない、というのは、ずいぶん高度な技ではないか。
しかも、同じ人に対しても、「時」と「場合」によって、態度を変えなければならない、となると、もうお手上げである。

上記のことをロボット(パソコンでもいい)にやらせることを考えてみる。
プログラムはこんな感じになるだろう。

     -----------------------------------------------------------------------
     ・もし話し相手が「目上」でなく、かつ「フランクさが要求される場」であれば、
       →くだけた表現で話す
     ・上記以外の場合は、
       →ていねいに話す(敬語を使う)
     -----------------------------------------------------------------------

簡単なアルゴリズムだが、「目上の人」「フランクさが要求される場」をどのように定義するかが問題だ。
どうやって「目上の人」「フランクさが要求される場」を機械に判断させるか。 膨大なデータを積み上げても、それだけでは足りないだろう。

実を言うと、私の場合、実際に、上記のアルゴリズムで動いている。
データは、人物データベースと、場面別経験データベースを使う。
人物データベースの属性で、「職場の上司」「職場の先輩」「年上」「初対面」あたりが「目上」と定義されている。
社長も、おそうじのおばさん(年上)も「目上」なので、私は同じようにていねいに挨拶する(世間的には、おそうじのおばさんは、その職業への蔑視あるいは軽視から、「目上」に入れない人もいることは知っている。しかし私は、なぜ職業によって人を差別しなければいけないのかわからない。倫理観というより、そうすべき合理性が見つけられないのだ)。

「フランクさが要求される場」の定義のほうが難しい(実際の場面は動的に変化するので)。
今定義されているのは、「飲み会(の後半)」「後輩や同僚に何か頼まれたとき」「後輩や同僚に街で会ったとき」くらいだろうか。

しかたがないので、無難なセンを狙う。基本的に、スタンダードな日本語で、ていねいな言葉遣いをすれば、ほとんどの場合失礼にはならない。

…と思って今までやってきたのだが、ちまたのアスペについての解説書を見ると、アスペの特徴として「話し方が堅苦しい」とか書いてあるのだ。うーん、これほど気を使っているのに……結局裏目に出ているのである。

ラギィの言葉の発達は、今の段階では少し遅れているようだが、文法的に正しい言葉遣いは、そのうち習得するだろう(と私は予想している)。
難しいのは、その運用の仕方、いわゆる「ソーシャルスキル」だ。
世の中となんとか折り合いがつけられる程度に、親子で学んで行かなければならない。

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想像力

自閉症の三種の神器…じゃなくて障害の三つ組のひとつと言われる、「想像力の欠如」というのが、どうも良くわからない。
ラギィはまぎれもなく自閉症だが、「ごっこ遊び」は好きだし、最近は特にぬいぐるみさんたちと一緒に、上手に一人遊びをしている。

「ものがたり」を作るのも好きで、ここ1年ほど、折に触れては奇想天外なエピソードを聞かせてくれる。

それは、去年の冬、夢中になって見ていたビデオ「ティガー・ムービー」からヒントを得たものだが、独自の展開をとげ、日々新たな事実がわかったりして、結構楽しませてもらっている。
そのお話のテーマは「ラギィのまち」。ばあちゃんラギィをはじめ、たくさんのラギィたちが住んでいて、ラギィ語を話す。主な登場人物と、これまでに判明したエピソードはこんな。

ラギィのまちのはなし

ラギィのまちに住んでる人は

・ばあちゃんラギィ
ばあちゃんラギィの家の二階に、絵の展示するところがある。
外の隣に、お客さんが来たときに、お茶を飲むことができるんだ。
いろんなものが食べれるし、お野菜も少し売ってるんだ。
肉とかも売ってるよ。
・じいちゃんラギィ
1994年に町で火事が起こったとき、じいちゃんラギィが、二階にいたみんなを助けてあげた。
じいちゃんラギィの体がびゅうーんとのびました。
それで、じいちゃんラギィは町のヒーローになった。
・おばさんラギィ(居るのはうそ、夢だった)
ばあちゃんラギィがおうちで人形作って、買い出しに行って帰って来たら、人間になってた。それがおばさんラギィだった。おばさんラギィは、魔法使いだった。棒でボタンを押してドンとやった、どろぼう(わるいことした人)が二度とこないように。ごめんなさいした人は大丈夫。
・歌自慢のおじさん
いつも歌ばっかりうたっています。
でも、田んぼでは、稲を植えるときだけ、歌をうたいます。
口も鼻もみーんな大きい。

そこでラギィは何をしているかというと、ライブ活動(^^;)
実際に自作の歌をうたって見せてくれる。

デビュー曲のタイトルは、バンド名でもある「バスキーリーミスズ」(←ネーミングセンスも独特)だそうで、この曲は何度も歌われるたびに完成度が上がってきている。歌詞にもいくつかバージョンがあるのだが、巻き舌や曖昧母音など特徴をよくつかんだ「なんちゃって英語」バージョンでのパフォーマンスは圧巻だ。

つい先日は、ラギィの町のテレビ番組を企画・独演してくれた。テーマソングで始まり、インタビューやニュースを放送し、エンディング曲で締める。さすが現代のお子さまだなあ、と感心してしまった。

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そっくり

5/14(2003年)放送「福祉ネットワーク」のコーちゃん。耳ふさぎのしかたが、ラギィにそっくりだ(^^;)

それにしても、ひよこ園。これだけ視覚的手がかりがあり、その運用システムがこれだけ確立していれば、本当に安心して、自信を持って一日の活動ができるだろう。
言葉はなくても、写真カードを使って、自分の意思をどんどん伝える子どもたちの姿には感動だ。「騒音に耐えられなくなったとき静かに過ごす部屋」が用意されているのもすばらしい。
これ、ぜひ、全国の保育園・学校の先生方に見てほしい(きっと、NHKのライブラリにある。福祉系だから無料で貸してくれると思う)。見通しの悪さや感覚過敏など、自閉症による困難を持つひととコミュニケーションするためのヒント満載だ。
言葉のある・なしにかかわらず、困難を持つひとは持つのだ。ラギィはたまたま「しゃべれる」けど、「しゃべれる」からって自閉症による困難(「騒音が苦手」など)がなくなるわけではない(あたりまえだけど、忘れられがちでは?)。だから耳ふさぎだってするのだ。

近視のひとが眼鏡やコンタクトレンズを、見えないひとが杖や盲導犬を、歩けないひとが車椅子を使うように、聞こえ過ぎるひとが耳栓を、見え過ぎるひとがサングラスを、視覚優位なひとが絵カードを使うことを、自然に受け止められるようになると良いと思う。(現状は、耳栓だって、勤務先じゃ「排他している」と誤解され、良くは思われない。使用禁止されないだけマシかもしれないが。)

来週のテーマは「家庭を暮らしやすく」。半年ほど前からお着替えがとても苦手になってしまったラギィくんを助けるヒントがあるだろうか?必見だな。
この番組、レポーターの声質と、妙に抑揚のついた話し方が苦手なんだが、それ以上に役立つ情報がありそうなのでがまん。

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自閉症スペクトラム指数(AQ)

自閉症傾向を測る指標のひとつに、「自閉症スペクトラム指数(AQ)」というのがある(Baron-Cohen他、2001)。
これは、正常知能の成人であれば、誰でも、自己回答方式で、自分の「自閉症傾向」を測れるというスグレモノだ。

★注意!★
AQは「診断ツール」ではなく(*1、自閉症傾向のスクリーニング用ツール、つまり、自閉かどうか診断する前の、おおまかなふるい分け用のツールなので、AQだけで自閉症であるかどうかの診断はできない。
また、AQの対象となるのは、正常知能成人

でも、自己回答式で、客観的な数値で自閉度が出てくるなんて、おもしろいし、かなり魅力的だと思う。

2003年に、このAQの日本語版ができた。

「自分は自閉症だろうか」「診断を受けるべきだろうか」と悩んでいる人たちとかが飛びつきそうな話題だと思うのだが、なぜかあんまりWeb上で話題にならないなあと思っていたら、ゆうゆうひろば日記でちらっと言及されているのを最近見つけた(日本語版AQが載っているURLもここで紹介されていた。感謝)。どうやら自閉症スペクトラムの子を持つ母親たちが参加する座談会で、「試しにやってみたら」という感じでAQの設問表が配られたらしい。

この日本語版AQの詳細については、下記サイトで紹介されている。

http://www.nise.go.jp/kenshuka/josa/kankobutsu/pub_f/F-112/05.pdf

#うわ、びっくりした〜!各データは印刷物をスキャンしたPDFだよ。どうりで検索にひっかからなかったわけだ。

※ちなみに、オリジナル版AQ(英語)はこちら↓(ここだと、設問に答えてクリック一発で、自分のAQがわかります)

http://www.wired.com/wired/archive/9.12/aqtest.html

さて、AQ日本語版作成にあたり、若林先生は2002-2003年に調査を行ったが、その結論は、以下のとおりだった(2003年当時)。

ということはつまり、↓

この結論を見て、個人的には、「特に診断を受けていない人にも自閉症的な傾向を持つ人がいる」ってのは単に受診していないだけなんじゃないかと思っていたのだが、その後、若林先生は、国立特殊教育総合研究所(2003年当時。2004年現在は、茨城大学教育学部教授)の東條吉邦先生たちといっしょにさらに調査を続け、AQで高得点(33点以上)だった学生12名を診断してみたら、12名中7名が自閉性障害またはアスペルガー障害の診断基準にあてはまったそうだ(ただ、現在不適応を起こしていないので、自閉性障害とは診断されないらしい)。(*2

上記の調査結果や、AQ33点以上には成人のアスペルガー症候群・高機能自閉症者群の9割近く(87.8%)が含まれるのに対し、健常群でAQ33点以上をとるのはわずかに3%弱であることから、若林先生たちはAQのカット・オフ点(健常者と自閉症の識別点)を33点と決定した。(*3
※ちなみにバロン・コーエンの(イギリスでの)調査では、高機能自閉症・アスペルガー症候群の80%がAQ32以上、健常者でAQ32以上なのは2%。(*4

グラフをみると、たしかにはっきりくっきり、フタコブラクダ状になっている。(http://www.nise.go.jp/kenshuka/josa/kankobutsu/pub_f2/F-112/05.pdf p.5)
ちなみに私はというと、ちょうど谷間の自閉症寄り、というか、右コブの左斜面のふもとに近いほうで、わずかながら健常者もいるあたり、数値でいうと、AS/HFA群の平均値には及ばないが、非自閉者の平均値よりはAS/HFA群平均値にずっと近いというビミョーな位置にいる。以前から、自分は自閉症スペクトルの中では比較的マイルドなほうだろうと思っていたが、やはり、ちょうどそのあたりになるのか?(診断を受けてみないとわからないが、自閉症傾向の度合いがわかったからまーいーやという気分。)

その一方で、AQの個人差の幅がとても大きいこともわかる。自閉症の人でAQが健常者の平均に近い人もいるし、ごく少数だが、健常者でAQ33点以上な人もいるわけだ(前述の、試しに診断してみるテストで自閉症の診断基準にあてはまらなかった、12名中5名を含む)。AQのカット・オフ点が33点といっても、実際の診断・線引きって難しそうだなあ、と思う。でも、そういう診断って、なんだろう?とか、診断基準に問題はないのか?という疑問も持ってしまう。
「だいたいさ、ASなんて気付かずに普通に働いてる成人AS者なんて、山ほどいると思うんだよね。」と書いておられる方もいるくらいで、うーん、たしかに、見ていて「あ、あの人もAだ」と思う人、けっこう多いからなあ。体感的には、1割近くいるんじゃないだろうか。
特に私の職場は、Aな人の比率が多いような気がする…。
だから何だと言われても困りますが。

それはそうと、本家のバロン・コーエンさんは、AQの調査結果から、「自閉症の極端男性脳理論」というのを提唱して論争をまきおこした(*5そうだが、こちらのほうも気になる。それってつまり、女性で自閉症の場合は、脳がいくらか男性寄りってことなんだろうか?

子供の頃から、自分があまり「女っぽくない」ことは自覚しているし、もともと「女らしく」したいという気持ちがない。現在も化粧は(なるべく)しないし、服装も男物や中性的なものを着ることが多い(綿素材でゆったりしたもの、デザインがシンプルなものが好き)。が、これらは文化的な(ジェンダーの)問題や、過敏性の問題だと思っていた。
しかし、実は生物学的にも「男性」寄りの要素を持っているのだろうか…?

★まとめ★

AQ(日本語版)【PDF】

AQ(英語版)

★脚注★

*1

"Baron-Cohen et al.(2001)によれば、この尺度は、自閉性障害にあてはまるかどうかという概略的な診断に使用できるとともに、その障害の程度や、より精密な診断を行うべきかどうかといった臨床的スクリーニングに使用できることに加えて、自閉症スペクトラム仮説にもとづいて一般健常者の自閉症傾向の個人差を測定できるとされている。"(「自閉症スペクトラム指数(AQ)日本語版について」若林, 2003, p.1-2)


"Clearly, the test is not exactly hard science. It won't tell you whether you have autism, but it might tell you something about yourself -- or, more precisely, about your amygdala."
"The median score is 16.4; most diagnosed autistics score 32 or higher. But Baron-Cohen emphasizes that this is not a diagnostic tool. Those who score 32 or above do not necessarily report finding social interactions difficult, he says, and do not necessarily have autism."("The Autism Quotient" Steven Johnson, 2004)

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*2

"健常者を対象とした場合でも、AQが自閉症傾向の程度について診断的機能を持ちうるかを検討するために、大学生群の被験者でAQ得点上病理学的水準とされる33点以上となった被験者のうち面接に同意した12名対してDSM-Wの自閉性障害の診断基準がいくつあてはまるかを判断した。判断を行った専門化は、面接した被験者のAQ得点を知らされていなかった。その結果、AQで33点以上であった12名の大学生中7名が自閉性障害ないしはアスペルガー障害の診断基準にあてはまると判断された。しかし、自閉性障害という診断に重要な幼児期における発達的なデータが得られないことや、現在不適応感を訴えているものが1人もいないことなどから、実際上の自閉性障害とは診断する必要はないと考えられた。−中略−しかしながら、12人中11人が高校卒業までに、孤立やいじめ、友達関係が苦手といった社会的コミュニケーション上の問題があったことを報告しており、健常者でもAQで高得点をとる場合には、自閉症傾向の顕著さが適応上問題になりうることを示していた。"(「自閉症スペクトラム指数(AQ)日本語版について」若林,2003, p.5)

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*3

"AQの目的の一つは、自閉症スペクトラム上での個人差の測定であり、その概念から当然成人のアスペルガー症候群・高機能自閉症者群の得点分布と健常(統制)群の得点分布が乖離することが予想される。そこで被験者別得点分布にもとづいて、成人のアスペルガー症候群・高機能自閉症者群を健常(統制)群からもっともよく識別するAQ上の得点を検討した結果、33点が識別点(カットオフ・ポイント)として妥当であると考えられた。すなわち、33点以上には成人のアスペルガー症候群・高機能自閉症者群の9割近く(87.8%)が含まれるのに対し、健常群ではわずかに3%弱(大学生で2.8%、社会人で2.6%)がそこに含まれるのみであった。したがって、AQの得点が33点以上であることが、自閉症スペクトラム上において病理的水準の自閉症傾向を持つことを意味すると考えられることになる。"(「自閉症スペクトラム指数(AQ)日本語版について」若林, 2003, p.4)

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*4

"The adults with AS/HFA had a mean AQ score of 35.8 (SD = 6.5), significantly higher than Group 2 controls (M = 16.4, SD = 6.3). 80% of the adults with AS/HFA scored 32+, versus 2% of controls. Among the controls, men scored slightly but significantly higher than women. No women scored extremely highly (AQ score 34+) whereas 4% of men did so. Twice as many men (40%) as women (21%) scored at intermediate levels (AQ score 20+). Among the AS/HFA group, male and female scores did not differ significantly."("The autism-spectrum quotient (AQ): evidence from Asperger syndrome/high-functioning autism, males and females, scientists and mathematicians" Baron-Cohen, 2001)

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*5

"Last fall, Baron-Cohen stirred up controversy with a book arguing that autism, which afflicts boys far more often than girls, may even be just an extreme version of normal tendencies in the male brain."("The Autism Quotient" Steven Johnson, 2004)

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作成:2001 最終更新:2004